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民主主義の黄昏

 

 

(1)決壊する民主主義

 

以前にも書いたのですが、民主主義とその根本ツールである「選挙」は、うまく適切に人間社会を運営していく仕組みとしては脆弱なものである…ということが最近次々に証明されている、と私は思います。

英国のEU離脱投票、フィリピン大統領、韓国の政情、そして米国大統領選。しかもこれで終わりではありません。ヨーロッパの英国以外の国々もポピュリズムの嵐到来の気配ビンビンです。人間、生きていく上では日頃より「民主主義も選挙も、万全の信頼を置けるものではない」という見切りと覚悟が必要だと思うのですが、どうも第二次世界大戦後世代は(物心ついてから、という意味では今やほとんどの人がこれに該当すると思いますが)日本国民のみならず世界的にこれらを「絶対的な正義」と信じ込んでしまっている感じがあります。

これまで盤石と信じていた堤防が大雨の中次々と決壊していく様子を見るように、民主主義ってこんな風に壊れていくんだ…と目の当たりにすることが、驚きを通りこして感動的ですらあります。

私は、以前にも書いた通り、民主主義も選挙も全然評価できない人間なので(もちろん生まれてからこの方、民主主義のありがたみを存分に享受して生きており、それに対する感謝はありますが信頼するものではない、という意味です)この状況を見て心配になる、なんてことはなく、むしろ自分の予想が的中した快感しかない状態です。

考えてみれば、民主主義なんて、古代ギリシャで生まれたものですから、現代にマッチしているなんて考える方がどうかしている、ともいえます。今日世界的な、2千年以上昔に中東の一角に生まれた神が実は現代に全くマッチしないのと同じです。確か古代ギリシャの民主主義も、詭弁家煽動家たちが現れ、やがて衆愚政治へと変質して崩壊…と、現代と何ら変わらない崩れ方をしたのではなかったんでしたっけ。

物理学の世界では「コペルニクス的転換」の言葉があるように、亀の甲羅に乗った四方滝の平板な大地から球体になり、自分中心に天が回っていたはずが太陽の周りを回り始め、終には無の一点から膨れ上がった気の遠くなる巨大な宇宙の中の芥子粒にもならない微小な存在へと認識が更新され続けているのに比べ、政治や宗教は何千年も転換を生まずにいます。

ところで、こんな世界的な情勢の中で、現状でわが国は民主主義が比較的うまく機能しているように見えます。現代民主主義の元祖米国すらご存知のような状態の中で、なぜなのでしょう。最近私は、実は日本の民主主義は西洋生まれの本来の民主主義とは違うのではないか、という思いに至りました。敢えて表現するなら「和製民主主義」。

 

クロード・モネ  上:黄昏、ヴェネツイィア(1908)

         下:ラ・ジャポネーズ(1876)

ご存知印象派の代表的画家の一人モネは、ゴッホなどと並んで、当時の仏芸術界に流行して

いたジャポニズムの影響を強く受けていました。「ラ・ジャポネーズ」はその代表作。和が

洋の影響を受けたことだけに注目が集まりがちですが文化の進展という視点からいえば、洋

に和が影響を与えるのもいいことですよね。

 

 

(2)和製民主主義

 

考えてみれば、わが国は、有史以来(もしかすると有史以前から?)海の外からやってきたものをすんなり受け入れて、それをもとの形が無くなるほどいじって自分たち向きにカスタマイズする、というやり方がめちゃくちゃ得意でした。こうやっていろいろなものを「和製化」してきましたが、現在のわが国の民主主義も、全くそういうカスタマイズモデルの一つではないだろうか、と思い至ったわけです。私が思うそのカスタマイズの方向は、「禮之用和為貴」(礼はこれ和を用って貴しと為す)…すなわち、我が国に古くから根付いている儒教の教えに寄せていくことです。ちなみに、儒教はよく朝鮮半島に最もその影響が残っているように言われますが、私は違うと思っています。朝鮮半島に儒教の影響が残っているように見えるのは「目上」「目下」(朝鮮半島では「甲・乙」というらしいですが)という階層付けに基づいた礼儀の形式であって、その精神は全く残されていないと思います。儒教のルーツ中国も朝鮮半島も、王朝(政権)が変わると、前の王朝(政権)の血筋を徹底的に粛清しようとします。韓国では現代でもそれが厳然として続けられています。そして、血筋のみならず価値観も前のものを徹底して抹殺しなければ気がすみません。(これ、「易姓革命」というらしいですね。http://oboega-01.blog.jp/archives/1063732391.htmlで知りました)これに、中国の場合は紀元前にすでに焚書坑儒をやっており、共産党政権下でも徹底した儒教思想撲滅運動をやっているなど、具体的に儒教思想を葬り去る活動も加わっていますから、形式的なものもなにもきれいさっぱり無くなっていますし、韓国においては支配者に都合のよかった「甲・乙」の階層付けとそれに伴う礼儀の形式だけが残り、その精神は全く失われてしまっていると思います。

一方我が国においては、儒教も平常運転で、自分たちに合うように大胆にカスタマイズして、有史以来現在にいたるまで日本社会に根強く残ったままになっています。中国や朝鮮半島、また、欧州諸国やロシアでも、その時々の支配者層は被支配者層に苛烈な施政を行います。だからこそ、革命が起きれば文字通りの「血で血を洗う」恐ろしいものになります。一方わが国の場合、最初に権力の頂点に立った支配層が持ち込んだものこそが「上に立つものは高い徳を持っているべき」という儒教の思想であったため、そのまま「徳の頂点=権力の頂点」として象徴化してしまい、以後、実権が誰の手にあろうが、頂点は徳と権力の象徴である天皇にあり、いかなる実権力者もそれは為政上の最高権力者に過ぎない、という独特の構造ができあがりました。そんな構造の中で、権力争いに一般庶民が巻き込まれることも少なく、また、「血で血を洗う」革命が起きる必然性も生まれなかったと思われます。時の為政者も常に「徳のある政」を心掛けねばならず、一般庶民はまた、命がけで権力を転覆しようとする必然性に駆られることもほとんどなかったのではないでしょうか。そう考えると、象徴天皇というのは、太平洋戦争後米国によって定められたものでもなんでもなく、天皇家が実権力を失った室町時代あたりからすでにそうなっていた、ということだったと考えられます。

 

エドゥアール・マネ フォリーベルジェールのバー(1882)

モネより8歳年上のマネも、私は印象派の画家と思い込んでいたのですが、実は印象派展に

出品したことはないそうです。パリで後に印象派となる画家グループの中心で活躍していた

ことから、私がそんな思い込みをしていたのかも知れません。

 

(3)おすすめWa-cracy”cocktail

 

ちなみに、私たちは戦後流行したマルクス史観と米国の「戦前の日本は全て悪」という教育によって、江戸時代には士農工商というインドのカースト制度のような厳しい身分制度があり、支配階級の武士に対して農工商といった庶民はこびへつらって生きていたように印象付けられてきましたが、実際にはそのようなものではなかったようです。「切り捨て御免」なんて言葉はありましたが、そのようなことはよっぽど庶民が武士に対して無礼なことをした場合に限られた話で、もし武士が庶民を殺し、その原因が理不尽なものであったりすると、切った武士の方が厳しく罰せられ、お互い命がけであるという意味では平等だったということができます。江戸時代の武士といえば、現在の公務員といった感じであり、もちろん階級制度ははっきりしていたものの、支配‐被支配という関係性ではなかったと思われます。このようにして、我が国以外の国々の「支配者対非支配者の対立」の構図ではなく、為政者はつねに徳のある政治を心掛けなければならず、一般庶民はある程度そういう為政者を信頼して為政者の方針に従うという形で協力する、という、我が国独特の「共存共栄の構図」が少なくとも数百年前から続いていたと思われます。そこに、明治維新以降に持ち込まれた西洋式民主主義、太平洋戦争後に持ち込まれた米国式民主主義を付け加えてさらにカスタマイズしたのが現在の我が国の和製民主主義なのではないか、と私は考えるわけです。

和製民主主義のいいところは、為政者に徳を求め、また、その政策についても為政者も被為政者も民にとって益のあることが最重要だと考えるところです。そのため、詭弁家煽動家が現れて衆愚政治に傾きかけても、それが理屈や感情の流れに乗って暴走を始める前に「徳と利」の面から抑制がかかるところにあります。(もっとも、我が国でも太平洋戦争前夜頃はこの流れを抑制しきれませんでしたが)

理屈や感情は目的地を持たず勝手に増殖し溢れだし低きに流れ、いずれ土石流のように周囲を引きずり込みながら巨大化し、破綻を迎えるまで止まりません。これこそが古代ギリシャ生まれの民主主義の最大にして致命的な欠陥であることは、最近の米国や韓国を見れば簡単に分かります。さらに、あのナチスさえも「民主主義」から生まれたことを考えれば、民主主義なんて、右から見ようが左から見ようがそんなことは関係なしに、あんまり大したものでもあてになるものでもない、ということがはっきり見えてきます。何であれ「原理主義」というやつは困りものでしかなく、それは「民主主義原理主義(変な言葉ですが)」においても同じです。

それより、中国や北朝鮮のような化石のような独裁国家以外、形態としてはいろいろあっても最低限の民主主義がベースにある社会の中で、この「理屈と感情」の土石流被害をいかに未然に防ぐシステムを持つか、というのが現代社会の最重要課題ではないでしょうか。

そういう中で、我が国のもつ「和を以て貴しと為す」をルーツとする「徳利」志向は、西洋生まれの民主主義という度数は高いが味わいの乏しいベースに対して味わいと飲みやすさを与えるリキュールの役割を果たし、とても良いカクテルになっているような気がします。

名付けて「WA-cracy」カクテル。こんなアイデア、どうでしょうか…。


enfant terribleについて


アメドア・モディリアーニ「ジャン・コクトーの肖像」


コクトーは多才な人でありました。小説家、詩人、劇作、映画制作、音楽制作…そして、絵画制作も行いました。

超久しぶりに、「アンファン・テリブル(enfant terrible:恐るべき子どもたち)」という言葉を目にしました。といっても、20年ほど前に浅田次郎さんが書かれた「勇気凛凛ルリの色」を今さら読んでいて出会ったものです。ジャン・コクトーが1929年に執筆したこの中編小説のタイトルを最初に私が知ったのは大学生の頃…つまり、ほぼ40年前でした。と、分かったようなことを書きながら、考えてみれば私、コクトーのこの作品を読んではいません。今さらながらに、読まねば…
私が最初にこの作品名である言葉を知ったのは、三島由紀夫さんの「午後の曳航」の書評か何かだったと記憶しています。
小さなタグボートが巨大な艦船を曳いて導くように、子供達が「栄光への道程」を逸れ始めた「海の男」を「真の栄光」へと導いていく…その「真の栄光」とは「輝ける死」である…というところが三島作品のミソなのですが。その「タグボート役」がenfant terible。道を逸れかけている「海の男」を「輝ける死」に導くために、猫を相手にシミュレーションをしたりします。というところで思い浮かぶのが件の神戸児童殺傷事件。
先にも書きましたように、私はコクトーを読んでいないのですが、少なくとも神戸の事件の何十年も前にenfant terribleは小説に描かれていました。事件当時、ニュースを見て三島さんの「午後の曳航」を思い浮かべた人も結構いたのではないでしょうか。
でも私、40年経って気づいたんですが、三島さんに、見事にハメられていました。「午後の曳航」のenfant teribleは何のために猫を殺し、死体を損壊したのか。そんな行為に動じない「ダイヤモンドのように硬い」自らの心ないし意思を確認するためです。ってそれ、実は動じる自分の気持ちを知り尽くしてんがなっ!これを読んだ当時ティーンズの私は「ダイヤモンドのように硬い心」に憧れ、自分が動揺することなく猫を殺せるか自問して、それを持たない自分を情けなく思ったものです。今分かりました。三島さん、騙しましたね。「午後の曳航」のenfant teribleは、実はenfant teribleではなかったのです。「タグボート役」を果たすために、自らを励まして「ダイヤモンドの心」を装おうとしていました。それは小説家三島由紀夫そのものでもあったでしょう。
でも、酒鬼薔薇聖斗は違います。彼は疑いなく「ダイヤモンドの心」の持ち主です。彼が猫を殺し死体を損なうとき、心に動揺はなかったでしょう。一種の高揚はあったかも知れませんが。その行為は彼の内なるサディズムの欲求から生まれ、みじんも不自然な点はありませんでした。思春期に性的欲求が生まれるように、彼には自然に殺す欲求が生まれていたのです。なので、彼の心は「午後の曳航」に描かれたようなドラマとは無縁であり、葛藤も抑揚もない退屈なものであったはずです。三島さんはそこまで知っていました。知りながら、この「退屈な事象」を驚くような緊張感漂うドラマに作り変えたのです。天才三島は、未来に取材して小説を書いていました。読者である私は40年後に騙されたことに気づきました。
私は酒鬼薔薇聖斗の書いた本を読む気はありません。それは、多くの人の言う、被害者のことを考えると…とか、あのような犯罪を収益化するのは…とかいった「良識」のためでなく、単につまらないと思うからです。「午後の曳航」より面白いことは絶対にないはずです。だって、天才小説家が単純な事件を題材に(三島さんがこの小説を書いたときにはまだこの事件は起きていませんでしたが)渾身の力でフィクション化したものですから、元となった事件の犯人が書いたものと比べ物になるわけがありません。

Begin the …



上:ギュスターヴ・モロー『オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘』
下:ジョージ・フレデリック・ワッツ『オルフェウスとエウリュディケ』
オルフェウスはギリシャ神話に登場する、竪琴の名手で吟遊詩人の青年。妻エウリュヂケを亡くし、黄泉の国に迎えに行くくだりは古事記のイザナギがイザナミを迎えに行く話と通ずるところがあります。妻をなくしたオルフェウスは彼に激しく恋する女神たちに見向きもしなかったため、かわいさ余って憎さ百倍で怒り狂った女神たちに八つ裂きにされてしまいます。三島由紀夫は若い女性を熱狂させていたエルビス・プレスリーをオルフェウスになぞらえていましたが、南欧の歌神といった感じのフリオ・イグレシアスなんてもっとオルフェウスっぽいですね。

数週間前の話になりますが、テレビのスピーカから流れる懐かしい曲にちょっとビックリしました。
Begin the Beguine…ご存じでしょうか。Julio Iglesias(フリオイグレシアス)1981年の曲だそうです。(https://www.youtube.com/watch?v=89KG7jNi1qg
約30年前に、短期間ですが頻繁に聞いた曲です。それきりご無沙汰でしたがイントロを聞いた途端「あの頃」の気分が蘇ってきました。
ホンダ ジェイドのCMです。車のCMにはしばしばかなり古い曲やスタンダードナンバーが使われます。落ち着いた、普遍性と高級感を感じさせる、そして滑らかな、そんな曲が車のCMには好まれるようです。たしかにこの曲も、そんな一つかも知れません。がしかし、あまたあるそのような曲の中で、なぜ、今、この曲なんだろう、という疑問は残ります。この曲が、約30年前に日本の有名メーカー企業のある商品のキャンペーンに使われたことを記憶されている方はどれくらいいるのでしょうか。
憶えている方は憶えていますよね。―Begin the Technics―当時の松下電器のステレオのキャンペーンに使われたものです。なぜ、30年も経った今、車のCMにこの曲が…私が小さな疑問を持ったのも納得していただけるのではないでしょうか。
あの、ラテン男の、これでもかっ!というほど色気あふれる容姿、そして、なんといっても、甘い、とにもかくにもまったりとこってりと、甘い、歌声。
あのころ、オーディオ各社はシスコン、ミニコンと言われる商品の販売にしのぎを削っていました。一方消費者である若者は、オーディオを暮らしに不可欠なものとして求めていました。
考えてみると、あの頃というのは、音楽も、それを享受するための機器も、そして音楽市場を形成する当時の若者のマインドも、一種の転換期だった気がします。
機器は、重厚な家具のようであった『ステレオ』の流れを汲むシステムコンポからミニコンポ、コンサイスコンポと呼ばれるコンパクトなものに変わりつつありました。―Begin the Technics―のキャッチフレーズで市場導入した松下電器の製品も、まさに「コンサイスコンポ」でした。流行の音楽も、洋楽邦楽ともにそれまでどこかしら権威権力や社会に対する反骨精神を秘めたものであったのに対し、気分や気持ちをテーマとした軽い感覚のものへと移り変わる時期でした。そして、若者は自分のアイデンティティを証明すべく目の色を変えて音楽を聴くのではなく、生活のBGMとしての音楽を欲するように変わっていきました。フリオイグレシアスの、あの甘い甘いラテン男の歌声は、地中海沿岸かカリブ海沿岸の高級リゾートにいる「気分」を聴く者に与えました。そういう時代の雰囲気にミートするねらいで松下電器もこの曲を選んだのでしょう。
少しだけこのキャンペーン企画に関わっていた私にはしかし、この選択には大いに疑問でした…このとろっとするほど砂糖を入れたコンチネンタルコーヒーのような歌声を、当時の日本人のどのような層が魅力と感じるのだろうか、と。本来主ターゲットであるはずの若者層は先に触れたとおり既にいろいろな意味で軽快かつ爽快なものを好みだしており、濃厚かつ激甘なこの雰囲気がミートしないことは自明でしたし、ターゲットではないもののラテン男のムンムンエロスに酔ってくれる中年女性という存在があるにはあるだろうが、決してマスではないというのも誰の目にも明らかでした。結局相当ピントはずれのこの選択は、広告代理店の横暴であったのではないかと今になって思います。日本国内ではあまり知られていないが世界では大ヒットしているスーパースターが、今なら、うちなら、使えますよ…という広告代理店の手前勝手な売り込みにメーカー担当者が安易に乗ってしまった…なんてバブル時代にありがちな光景を想像してしまいます。
案の定結果は芳しいものではなく、もともと若者から不人気であった松下ブランドはこれ以降もオーディオの消費者層を惹きつけることに成功することはありませんでした。
それでも…冒頭書いたように、イントロを聴いただけで蘇ってくるあのころの「時の匂い」…これはこれで、キャンペーンに役立ったかどうかは別問題で、曲の甘く切ない雰囲気は人を否応なくノスタルジーの世界に引きずり込む力があります。
さて、30年以上も前のことを長々と書いてしまいましたが、翻って、今現在の「時の匂い」ってどんなものなんだろう、と考えると、どうもなんだか無味無臭なんですよね。つまり、今って、あんまり「時の匂い」を感じないんです。これは私が歳をとったということもあるのでしょうが、それを差し引いてもやっぱり「匂い」がない気がします。
70年台後半くらいのアメリカ西海岸ブームを皮切りに次々と押し寄せた流行の波にはいつも「時の匂い」がまとわりついていました。ランウェイに次々現れるモデルがそれぞれの作品のコンセプトに合致した香水の香りを漂わせているように。それが、90年台になるとパタッとなくなった気がするのです。
「無臭」が好まれる時代になったのか、あるいは世界から「匂い」成分が失われたのか、なんなんでしょうね、この現象は。でも私、単にノスタルジーからだけでなく、「匂い」がある方が好きだなぁ。だって、料理でも酒でも「香り」はキモですものね。何とか「匂い」消失の原因解明と、できれば復活の道を見つけてみたいなと思っています。
 

未来のイメージ



マックス・エルンスト 上:『都市の全景』下:『灰色の森』
エルンストの「月」2選。100年後も、月はおそらく今と変わらない姿を見せているでしょう。月が見下ろす地球上の人間たちの暮らしがどのように変わっていようとも。月を見上げている人間に一人として100年前と同じ人間がいなくとも。


性能向上のため休止していた欧州合同原子核研究機関(CERN)の大型加速器LHCが2年ぶりに再稼働するそうです。過去、8TeVで陽子同士をぶつけて、ヒッグス粒子の発見に至るなどしていたものが、今度は13TeVと倍近いエネルギーで陽子同士ぶつけることで、現在人類にとって最大の宇宙の謎の一つであるダークマター(暗黒物質)粒子の発見が期待されているとのこと。
話は変わって、先般、小林朋道さんという理学博士の書かれた「ヒトの脳にはクセがある」という著書を読みました。本の帯の『ヒトはなぜ時間の始まりと宇宙の果てをイメージできないのか』という文言に強いインパクトを受けたからです。というのは、かねてから「宇宙物理学の下手の横好きマニア」を自称する私にとってずっと疑問だった…というよりも、自分の頭の出来が良くないせいだと悩みにすらなっていたこの問題がそのまんま言葉となっていたためです。書店の店頭でこれを見つけた私は、購入して帰宅するや否や一気に読み通してしまいました。
そして、ちょっとだけ安心しました。ビッグバン、インフレーション理論、マルチバース宇宙論、超ひも理論、それやこれやのことが書かれた一般人向けの本をいくら読んでも、これらについての「具体的な」姿が頭の中にイメージできないのは必ずしも自分の頭のできの問題ではなさそうだ、と、この本を読んで思ったからです。研究者の方々は理論・論理を追跡し、そこから生まれた仮説を加速器をはじめ様々な手法で検証し、ということを繰り返しながら真実に迫っていくことを続けていらっしゃるのでしょうが、たとえそうした最前線の研究者の方々といえども、理論の道筋の説明はできても、そのことについて「具体的にイメージ」できるかどうかは別問題ということのようです。
また話は変わって、というか話は戻って、冒頭に触れた加速器に関してですが、LHCに限らず、世界的にも、日本国内でも、毎年加速器や望遠鏡の類にそれなりの予算がかけられています。こういうお金は金額規模から言っても投資の意味から考えても企業レベルのものではなく国家レベルのものがほとんどだと思いますが、国家レベルであるにしてもやはり目線の先には何らかの「実利」が存在しなければこんな大きな投資がなされる訳がありません。
全く興味本位でしかない「宇宙物理学の下手の横好きマニア」の私には、ヒッグス粒子やダークマター粒子の発見がどのような実利につながるのか全く想像がつきません…が、考えてみれば、アインシュタインが特殊相対性理論や一般相対性理論を構築した頃一般の人には、それが何の役に立つのかなんて想像もつかなかったでしょう。しかし、100年後の今(調べてみたら、アインシュタインが一般相対性理論を発表したのは1915年、ちょうど100年前でした)、宇宙開発等の分野でこれらの知の蓄積は実用的にも不可欠のものとなっています。
つまり、ヒッグス粒子の存在を認識していることも、100年後には「実用的に」不可欠になっているかも知れません。
またまた話を戻して、小林朋道博士は「ヒトの脳にはクセがある」の中で、人間の脳も他の生物同様、生物的に必要な機能しか持っていない、という主旨を論じておられます。つまり『時間の始まりと宇宙の果てをイメージできない』のは、人間が生物的にそれをイメージできる必要がないから、ということになります。
どちらにしても、近々医学が人の不老不死の手法を開発しない限り(近々のそれはあり得ないと思いますが)今「ヒッグス粒子の発見は将来現実にどんな役にたつのだろう」というようなことを考えている人も考えていない人も、ほぼ全員100年後の状況を見ることはできません。今生きている人の誰もその「実効」を享受することはおろか見ることも感じることもできない事業に膨大なお金や能力や労力を注ぎ込むこと。それが未来をつくることなんだ、ということを理解はできてもイメージできないのは、自分の能力の問題ではなく脳がそういうふうにできているからなんだろうな、となんとなく理解しました。
 


 

時代を変えるもの


レオナルド・ダ・ビンチ《音楽家の肖像》

10月も終盤にさしかかりました。

突然ですが、私、10月9日生まれです。

皆様には、それが何か?という話だと思うのですが、まぁ聞いてください。

実はこれは、ジョン・レノンの誕生日と同じなのです。

なんだ、そんなつまらない自慢…と、そう焦らないで。

つい数年前まで、この時期になると、ラジオやテレビ、特にFM放送では必ずかの偉大

なミュージシャンの話題がでたものでした。この話題が出ることで、自分も誕生日を

迎えたことに気づくくらいの勢いでした。


でも、今年は聞かなかったんですよねぇ、彼の名前…。

調べてみると、ジョンレノンは1940年生まれ、「ビートルズ」が生まれたのは1960年、

銃撃によって亡くなったのは1980年(いちいちキリがいいですね…)、生誕からは今

年で73年、ビートルズ誕生から53年、亡くなってから33年、さすがに、音楽を変えた

…否…世界を変えた巨星の残光も地平の果てに完全に姿を消したのかも知れませ

ん。


私は音楽には全く造詣のない人間ですが、そんな私でも、物心ついた1960年頃から

現代までを何となく眺めてきて、ビートルズがなければいまこの世界は少し違ったも

のだっただろう、とはっきり確信できるくらい、その影響は大きいものがありました。

「自由・平等・平和・愛」といった価値観が世界中の一般大衆、特に当時の若者層に

広がったのには、彼らの力が大いに働いていると思います。


でも逆に、現代の雰囲気から彼らの影響を見つけ出して示せ、と言われると、それは

難しい…というよりも、あまりピッタリこないんですよね。


現代には現代の「匂い」がある。ビートルズ時代には世界にとって最も重要と思われ

た「自由・平等・平和・愛」といったテーマは、実現されるべきものはかなり実現され、

定着すべきものはかなり定着し、現在、それよりもさらに重要なテーマが世界を覆っ

ています。環境や、資源や、エネルギーや…と、ここまで書いて気が付きました。「あ

の時代」には、「自由・平等・平和・愛」…人間の心に関することが人類最重要のテー

マであったのに対し、現代は「環境・資源・エネルギー」…なんと現実的な問題ばかり

なのでしょう。昔は音楽で世界が変えられる気がしたのに、現代ではそうは思えない

のはなぜなんだろう…とよく考えるのですが、当然でした。心の問題は音楽で変える

こともできますが、現実問題は音楽の力ではいかんともしがたいものがあります。

今も昔も、日本のミュージシャンの多くは「反原発」を訴えることが多いですが、「原

発」は心の問題ではなく物理的な問題です。音楽の力によって問題を解決すること

はできません。


「昔は音楽で時代が変えられたのに、今の音楽にはパワーがない」…のではなく、世

界が抱えている最重要課題の質が変わったのです。


ジョン・レノンが生まれ変わって再び現代に蘇っても、半世紀前のあの偉業を達成す

ることはきっと不可能でしょう。


だからどうした…ということは何もないのですが…半世紀以上も生きていると、世界の

根本が変わっていくものだなぁ、と感慨に浸っています。と同時に、「あの頃」と今と、

それほど変わった世界に対して自分の認識がちゃんとついていっているのかと思う

と、暗澹たる気持ち陥ってしまいます。


「なぜ、昔は音楽が世界を変える力があったのに、今はそれがないんだろう」なんて

不思議に思っていること自体、遅れていますよね…。




イリア・レーピン《モデスト・ムソルグスキーの肖像》


【http://digitrek.co.jp】

夏の空



 
ルネ・マグリット 上《大家族》 下《偽りの鏡》ベルギー生まれのシュルレアルイズム画家として著名なルネ・マグリットの作品には、デペイズマンという予想もしないものを組み合わせるというシュルレアリズムお得意の手法を駆使する中で、しばしば印象的な空が登場します。私は何となく「空を描いた絵画」というとマグリットを思い浮かべてしまいます。


「夏休み映画」を2本立て続けに観ました。「終戦のエンペラー」…こちらは私が観たくて家族を付き合わせました。「風立ちぬ」…こちらは家族が観たがり、私が付き合いました。

けれど、結果的にはどちらも驚くほど似通った印象を残す映画でした。

主たる時代背景が太平洋戦争中であること、主題が「日本人のメンタリティ」であること、アメリカ人と日本人、民族と立場が逆でも、主人公が自らに与えられた使命あるいは夢に忠実であること、その恋人もまた自分の置かれた立場に実直に向き合って生き、そして早世してしまうこと、戦前戦中戦後のシーンが重要な時代背景として描かれていること。本当に、共通の部分を挙げだしたらきりがないほどで、結果としてこの2つの映画は観終わった後の私の中にとてもよく似た余韻を残しました。

どちらの映画も日本の敗戦・全面降伏・廃墟の街・恋人の死で終わっているだけに、余韻は物悲しく沈んだものでしたが、同時に何か清々しさも含んだ、独特のものであったような気がします。

亡くなった女の子を偲ぶ曲と思われるユーミンの「ひこうき雲」がまったくもってマッチしていました。

西洋や中近東では一柱の神様が善悪を定め、ツアーリズムが根底にある中国やロシアでは、政治権力が善悪を決めます。朝鮮半島もやはり中国ロシア文化圏で、政治権力による一神教を求めますが、韓国などは一応自由主義化されているのでやむなく西洋の一神教の導入に熱心だったりします。これに対して、島国の中で長い時間をかけて文化的な均質性を醸成してきた日本人の中では、善悪の境界はお互いの暗黙の了解の中にあります。だからこそ八百万の神々が成り立ち、その事実上の「無数」にまとまりを持たせているのが天皇制ではないでしょうか。

ですから、キリスト教系の幼稚園が遠足で神社にお参りに行く、というような微笑ましい光景が見られるのも、実はこの天皇制のおかげ、とも言えます。と、まぁ、これは極論ですが、要するに「お互い信じるものは違っても、日本人なら分かるよね…」この「日本人なら分かるよね…」が本当の我が国の宗教です。

これが日本以外には伝わらない…だから、マッカーサーも戸惑ったし、今も中韓とぎくしゃくする理由の一つでもあります。(尤も、中韓とのぎくしゃくはそれ以外の理由が大きいとは思いますが)でも、これって、グローバル化の時代に世界標準に日本が合わせるべきことなのでしょうか。

世界では、未だに一神教信者同士がお互いの神様で争っていますし(また、中近東あたりでは新しい戦争がはじまりそうです…)、政治権力が善悪を決めているところは道徳が大変なことになっています。

キリスト教系幼稚園の園児が遠足で神社にお参りする…けしからんことでしょうか。私は、平和の極みを示す微笑ましい光景だと思います。

これって、むしろ世界に拡げるべきものなのでは。

どうしたらそれが…良い質問ですね…あるいは、難しい質問ですね。

私ごときには、どうすればそれができるか全く想像がつきません。

でも、何か商いをして生きて行かなくてはならない身なので、商品化できたら最も価値ある輸出品になるのにな、と思ったりします。

まさに、ジブリ映画などがその典型かも知れませんが。


http://digitrek.co.jp/

 


5656するにはまだ早い






ウジェーヌ・ドラクロア
     [上]《ナンシーの戦い》 [中]《ポワチエの戦い》[下]《タイユブールの戦い》
数々の戦いの場面、修羅場を描くことの多かったドラクロアですが、この3点の戦いの場面は、ドラクロアの「三大戦争画」と呼ばれているそうです。
「ナンシー…」は勢力絶頂期のブルゴーニュ公国王シャルルが西欧最大の強国を作り上げようとフランス王ルイ11世に戦いを挑みながら、焦りから不用意な殺され方をしてしまう場面だそうです。
「ポワチエ…」は、英仏「百年戦争」の戦いの一つで、英王エドワードと仏王ジャン2世が戦い、エドワードがジャン2世を捕虜にした戦いであったとのこと。
「タイユブール…」は仏王ルイ9世が英王ヘンリー3世の守るタイユブール橋を突破して勝利を収めた戦いだそうです。
血を流す戦いかどうかは別にして、人の歴史は戦いの歴史でもあるのですね…キビシーッ!!


おっ、56歳。私とタメだ…

小泉光男さん、という岩手県会議員の方。先般ある病院の悪口をブログに書いて大炎上。その後謝罪会見をし、さらにその後自殺されたようです、ニュースによると。

ブログに書いた、という病院の悪口も見ましたが、こう言っては何ですが、まぁ、つまらないものでした。

県会議員ということを考えると…「先生」と呼ばれる立場に溺れておられたのか、病院を客商売のお店と思い込んでおられたのか(客商売でも、銀行の窓口などでは「○番でお待ちのお客様…」と呼ばれるのが普通ですが)、多少精神的に病んでおられたのか、会計の時番号で呼ばれたことに腹をたてて会計をすっぽかして帰った、というようなことを武勇伝のようにブログに公表してしまわれたようです。これに非難が殺到し、謝罪会見までされた挙句、自殺とは…。

故人に申し訳ないこんなことをくどくど書くのは、冒頭書いた通り、自分と同い年の男性であることが引っ掛かったからです。これも一種のITに対するリテラシーの問題だと思うのです。病院を客商売と思うなら政治家は人気商売であることは百も承知のはず。

それでも、ついうっかりブログにとんでもないことを書いてしまうのが、いい歳になってからITと付き合いだした世代の悲しさで、イマイチIT世界での身のこなし方が分かっていないことがこんな事態につながってしまったのだろうなぁ、と、妙に同情したくなってしまいました。

もう一人、ニュースになった56歳。辛坊治郎さん。颯爽とヨットで太平洋横断に出かけて間もなく、遭難し救助されるという、あっという間の何とも格好のつかない結末を迎えてしまいました。どうやらヨットがマッコウクジラと衝突して沈没してしまったという全くの不運が原因のようではありますが、こうなってしまうと世間の目は冷たいもの…やれ、無謀だ、やれ準備不足だ、やれ、救助費用は…と、厳しい批判にさらされています。幸い辛坊さんの場合は、怪我もなく無事救助されましたし、世間がうるさいとはいえ事故そのものは不運としか言いようのないものでしたので、小泉さんの場合と比較するとはるかにマシな状況ではあると思います。が、ただ、辛坊さんの方がより有名人である上にまさにマスコミに向けたデモンストレーション的行動であったがゆえに、世間に与えたインパクトはこちらの方が大きかったかも知れません。

いずれにしろ…。

今、56歳は危険なお年頃だ、と思うんですよね。

例に挙げたお二人ほどではないにしろ、私も含めた一般的な今時の56歳は、高度経済成長期に少年少女時代を、バブル経済期に青年時代を過ごし…つまり、長い間楽観的で華やかな時代を生きてきて今に至り、自身のポテンシャルの限界がはっきり見えだすと同時に周辺環境は不透明で悲観的なものに激変する、という中に生きています。そんな中で生きている焦りが、この人たちの「八つ当たり的言動」や「勇み足的行動」の根底に多少とも影響していることは間違いないでしょう。

正直言って、同世代に、手詰まり感が半端じゃない人がたくさんいると思うのです。

かく言う私も、全く典型的なその一人ですが…。

しかし…私にはこの時代の流れの中に何か大きな見落としがある気がしています。

時代の流れにマッチしないから、と、どんどん捨てられて行く能力が、本当に使い道のないものなのばかりなのだろうか…と。

どこまで行っても諦めの悪い私は、気持ちのどこかで「56歳の逆襲」チャンスを探しています。事件や事故にならない程度に…。

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世の中、平和が一番…かなぁ…




ウィリアム・ターナー (上)《平和−水葬》  (下)《戦争−流刑者とあお貝》
この画は対画だそうです。上はターナーの画家の友人が亡くなって水葬されるときを描いたもの、下はセント・ヘレナ島に流されてもの思いに沈むナポレオンの姿を想像上で描いたもの、とのこと。
料理と同じく芸術も、ヨーロッパの中で英国というのはあまりエッジの効いたものを生み出さない印象があります。
私の勝手な思い込みで、ターナーという画家はとっても英国っぽいと感じています。海と船を描くことが多く、水平線が多く登場し、印象派の一部の絵画のようにあまり輪郭が際立たない光中心の茫漠とした画。描かれているのは戦いや嵐などの激しい場面も多いのですが、どこかゆったりとしたロッキングチェアに腰掛けてパイプをくゆらせながら読む冒険譚の挿絵のように、そう、平和な印象なのです。
英国の芸術には、絵画であれ音楽であれ文学であれ、若い頃さんざん「事実は小説より奇なり」のような冒険的な生き方をした人が先に書いたようなシチュエーションで楽しむエンタテイメントのような印象があります。ひりひりするようなものが、無いんですよねぇ…


ちょっと更新をサボったために、やや古い話題になってしまいました。

 

前回書いた橋下さんに関することで(「戦いの火ぶた」http://iey.jugem.jp/?eid=184)、私の書いたことを裏付けてくれるようなニュース論評をMSNのニュースなどで2件見つけましたのでご紹介させていただきます。

 

■「“ケンカ上手”橋下市長の「慰安婦制度は必要」発言はわざとなのか?」

http://money.jp.msn.com/news/bizmakoto/%E2%80%9C%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%82%AB%E4%B8%8A%E6%89%8B%E2%80%9D%E6%A9%8B%E4%B8%8B%E5%B8%82%E9%95%B7%E3%81%AE%E3%80%8C%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6%E5%88%B6%E5%BA%A6%E3%81%AF%E5%BF%85%E8%A6%81%E3%80%8D%E7%99%BA%E8%A8%80%E3%81%AF%E3%82%8F%E3%81%96%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%8B%EF%BC%9F

 

■「橋下発言を一斉非難も…韓国世論に“一定の効果”」

http://sankei.jp.msn.com/world/news/130529/kor13052908210004-n1.htm

 

これを読んで、私は「やっぱり!」と心の中で膝を打ちましたが、当の橋下さんはその後「滅入っています」と、少々お疲れのご様子でした。「維新」の勢いも随分下火になったようです。

いくら練りに練った戦い方をしているとはいえ、基礎的な体力がそれほど大きくない人や組織にとって、戦い続けることそのものがリスクですよね。

そのリスクを恐れず挑戦を続けるところが橋下さんのいいところですが、周囲がよっぽど同調してくれない限り、結局体力負けする可能性が大きいのは革命を目指す人の最大の弱点でもあります。

安倍さんがかなり過激に古い枠組みを変えようと動いているため、橋下さんとしてはさらに過激な方向に行かざるを得なくなり、その結果大衆の共感を得にくくなっています。

やはり、革命を成し遂げるのは簡単なことではないようです。

 

 

※以前私が書いた記事(「SNSと仲間」http://iey.jugem.jp/?eid=177
■「フェイスブックがふと恥ずかしくなった理由」

http://topics.jp.msn.com/wadai/spa/article.aspx?articleid=1883025

 

■「日本ではフェイスブックはもう飽きられている」

http://topics.jp.msn.com/wadai/searchina/article.aspx?articleid=1880952

 

以前にも書いた通り、未だに私にはフェイスブックがどういう存在なのか、整理がついていません。つまり、ただの「流行りもの」以上の位置づけが認識できていません。意外と毒にも薬にもならないもの、と思ってしまっている、というか。だからといって、それに代わってLINEがすばらしい、とも思わないのですが。これが、自分が大学生くらいの世代であったら違ったのかも知れません…うーん…どうかな、やっぱり同じかも。結局、会わなければ大切なことは話せないですよね…時代に拘わらず。逆に言うと、どーでもいいことのコミュニケーションを膨大に増やしても、無駄に情報量が増えるだけ、という気がしてしまいます。

 

何か、もっといい意味で驚かされることはないかなぁ…。実質が伴って、重量感があって、存在感があって、どきどき感があって、緊張感があって…いかんいかん、どうも、退屈してくると心のどこかで椿事を期待してしまう私の悪い癖が出てしまいました。世の中平和が一番…

とはいえ、それにしても、そういうものを、見つけたいです。切実に。


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戦いの火ぶた






【上】ウジェーヌ・ドラクロア《ヤコブと天使の戦い》
【中】マルク・シャガール《ヤコブと天使の戦い》
【下】ポール・ゴーギャン《説教の後の幻影「ヤコブと天使の闘い」》
聖書の世界には全く疎い私ですので、描かれている場面がどのようなものなのかも全く知りませんでした。
ウィキペディアで調べてみても、今一つストーリーが飲み込めません。なにはともあれ、旧約聖書の中で、「イスラエル」の国名のもととなった場面である、ということを知りました。
シャガールは敬虔なユダヤ教徒の家庭に生まれたようなので、この画題に取り組んだのは頷けます。
宗教画として見ると、ゴーギャンの画は少しユーモラス、というか、現代の「マンガ」っぽいところがミスマッチでかわいいですね。


橋下さん、またまたはじめましたね。

しかし今度は手強いですよ。世界が相手ですから。

第2次世界大戦に関わることとなると、日本には世界に味方がいない。中韓はもちろん欧も米も、ここぞとばかりに日本を攻めてきます。ましてその内容が慰安女性の問題であれば、キリスト教文化圏の欧、米は欲望を罪と見なす傾向がある上にジェンダーも問題がからんできますので、現実がどうであれ絶対に「それが自然なこと…本音を言えば…」とは認めません。

しかし、私は橋下さんの今回の発言も、世界中からのバッシングを含めて大変な議論になることをはじめから計算しての「確信犯」だと思います。

私が橋下さんをすごいと思うのは、打たれることを恐れずに、既成概念にパンチを浴びせかけ、そのことによってこれまで皆がなんとなく「これが正しい」と思い込んでいることをあらためて議論の俎上に乗せ、価値のリプレイスを行うところです。

…と、ここまで書いたところで、ニュースで橋下さんが沖縄の米軍にフーゾクを利用するよう言った言葉を「軽率だった」と自ら撤回したことを知りました。

賢明だと思います。正義と悪、白と黒、ピューリタリズム特有の二元論の牙城の中の牙城、米軍に「グレーを認めよ」と言ったところで通じるわけもなく、日本に恨みと嫉妬を持つ中韓とともに「やっぱり日本は黒だった」という決めつけにあって叩かれるのが関の山で、勝ち目はありません。

橋下さんは無謀に見えて、勝ち目のない戦いを避けるクレバーさも持ち合わせています。橋下さんの戦い方は非常に明快です。まず、開始早々から休まずパンチを出しながらぎりぎりまで間合いを詰めて無謀に見える程の接近戦を挑む…この段階で自分もかなり被弾することを計算していますが「ここまでであれば自分がダウンして立ち上がれなくなる、ということにはならない」という臨界点をよく見極めているところが彼独特です。そうして、相手が本気で反撃しだしたら、相手のパンチの強さに合わせて少し間合いを開ける。相手のパンチに威力が無ければそのまま踏み込んで行って一気にKOをねらう。ある程度の被弾覚悟で体力のある間にできる限りのダメージを相手に与え、相手が強ければそこからは間合いをとって持久戦に持ち込み、最後は判定勝ちをねらう。本当に橋下さんの闘い方はボクシングの試合を見ているようです。

確かに、負けたくはないが戦いを避けていたのでは何も変わらない、つまり、戦わなくてはならないが負けるわけにはいかない、となれば、圧倒的な強さを持っているわけではないプレーヤーにとってはこれ以外に考えられない、というくらい考え尽くされた戦略だと思われます。

私が見る限り、橋本さんは政治ボクシングの国内チャンピオンの実力がありますが、世界となるとどうでしょうか。相手がデカすぎる、という問題がある気がします。スポーツのボクシングのように体重別の階級が設けられていませんから。

それでも、そろそろ日本の政治家さんたちが世界と戦わざるを得ない時が近づいているような気がします。最近…。そういう点では、橋下さんのような「戦略的に戦い方を考え、そう簡単には負けない」政治家が現れたことは頼もしいのかも知れません。



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ないものねだり


ジョルジュ・デ・キリコ《無限の郷愁》

デ・キリコは、イタリア人の両親の下ににギリシャで生まれ、アテネの美術学校で学んだそうです。1910年ころ、イタリアで、自ら「形而上絵画」と呼ぶ独特の雰囲気の画を描きはじめました。ニーチェの影響を受けたそうです。
さすがイタリアの画家さん…エスプレッソのようなオシャレな画、私の一番好きな画家さんの一人です…って、何人「一番」がおんねん!ですが…

中島知子さんの「マインドコントロール」に関する芸能ニュース(http://donicchi.jp.msn.com/opinion/goodwill3/article.aspx?cp-documentid=252595027&page=0)に、私にとって非常に興味深いことが書かれていたのでご紹介したくなりました。この中で「渕上賢太郎博士」という方が「ドーパミン」について語っておられるくだりが、私の35年程前の学生時代にご指導いただいた教授(大阪市立大学名誉教授 梅本 守 先生)が研究されていた“self stimulation”に関するものだったのです。

self stimulation”については、20097月のこのブログ(「マイケル・ジャクソンの死」http://iey.jugem.jp/?eid=8)で書いたことがあります。そのとき、私が梅本先生からこのお話をお聞きしてから30年以上の歳月が経っているので、多分研究がずっとすすんでいるでしょうが…、というエキスキューズを加えたのですが、まさにその「研究の進歩の結果」が紹介されていました。

2001年にスタンフォード大学の神経科学者ブライアン・クヌットソンという人が、「ドーパミンには報酬を期待させる作用があるが、報酬を得たという実感はもたらさない」ことを明らかにしたそうです。そして、ラットの脳に電極を入れて自分でレバーを押させる実験の、その電気刺激によって「ドーパミン」を分泌する部位こそ、“self stimulation”の問題部位でした。私が「ないものねだり中枢」と名づけたのもあながち間違いではなかったのかも知れません。

ラットが疲れて動けなくなるまでレバーを押し続ける、その脳部位がどうも単純な報酬系ではないようだ…というのが梅本先生をはじめ当時の大脳生理学系心理学研究者たちの興味のポイントでした。そして、この、中島知子さんの記事を読むと、その答えは簡単に言ってしまうと「モチベーションのショート」といったところでしょうか。人も動物も、得られる報酬そのものよりも「報酬を得られそうだ」という期待感によって突き動かされるのが真実みたいです。

「満たされないこと」あるいは「満たされそうな気がすること」が人を終わらない追求へと駆り立てます。高度な学術研究も、お金儲けも、ウェブサイトをクリックして中へ中へと入りこんでいくのも、多分すべて同じメカニズムの下で行われています。それが分かったからには、自身のプロデュースにもビジネスにも、そのメカニズムをうまく活かすことを考えるべきなのでしょうが、ことはなかなかそう簡単ではありません。中島さんが、困ったスパイラルから抜け出るのが決して容易ではないのと同様に…。




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