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「笛を吹く男」の恐怖


エドゥアール・マネ 上《笛吹く少年》 下《草上の昼食》
マネは印象派の代表的な画家の一人ですが、私にはマネの画が「印象派的」であるとはあまり感じられません。「笛吹く少年」も、17世紀バロック期のベラスケスの作品にインスピレーションを得て描いたものと言われています。
下の画はいかにも不謹慎な想像を呼びこすシーン設定ですが、事実、マネのねらいもそこにあったようです。権威の肥大化したパリのアカデミーに出展するも落選し、権威も権力もを失いつつあった第二帝政時代のナポレオン三世によってアカデミーへの当てつけに行われた「落選展」で物議を醸す、という、何ともややこしい出自の画です。当時、写真が一般に普及しだした中で、絵画と写真の「役割」の分化が生じた時期でもありました。猥褻な写真の販売は禁じられていたとのこと。この画もそうですが、そういう意味でマネの画には時々その「微妙な」ところを突いたのでは…と思わせるものがあります。

大阪市立桜宮高校の問題について…私にも高校生の子供がいますので、同世代の子供が亡くなったことに心の痛みを感じますし、年中子供を殴っていた馬鹿教員やそれを放置していた学校の大人たち全部に怒りを感じます。

それは当然のこととして、橋下大阪市長がこの問題に対して、桜宮高校の体育課の入試の中止を要請したことが物議を醸しています。

テレビ等で見ていると「目指していた子がかわいそう。子供に罪はない。」という理由で橋下市長の要請に批判的な人が大勢を占めているように見受けられます。

このような批判に橋下市長は明石家さんまさんの名言「生きてるだけで丸儲け」という言葉を使うなどしてその批判ないし非難をはねつけていました。

実は私も当初「そこまですると、事実上関係のないこれから入学しようという子に影響が及ぶから…」という理由で橋下市長の要請には疑問を感じていました。

が、よく考えてみて、今は、やはり橋下さんの判断は正しい、と思っています。なぜか…

この問題は一人の暴力教師と一人のその暴力によって追い込まれて自殺した高校生の問題ではありません。そういう状況が正々堂々と公認されていた体制そのもののはずです。下手をすると、学校全体ではとどまらず、周辺で関与していた社会全体が病巣ともいえます。自殺した少年は一暴力教師の暴力に耐えきれず自殺したのではありません。私は確信しているのですが、単純な苦痛や絶望で人はなかなか自殺しません。人を自殺に追い込む最大の要因は何か…この世に対する「諦め」です。自分に対する諦め、周囲に対する諦め…自分がもはやこの世にいる意味がない、と感じた時に人は死を選ぶのです。

そして、自殺した少年をそう考えさせたのは当の暴力教師よりも、むしろ彼の周辺にいた全ての人々の方だったかも知れません。そういう意味で、学校はもちろん同級生たちにも、家族にすら責任があると私は考えます。徹底的なことを言うなら、学校を廃校にしてもおかしくない事態です。

私は2年ほど前に何度かこのブログに「現在の日本には革命が必要」ということを書きました(維新伝心:http://iey.jugem.jp/?eid=150 革命の時代掘http://iey.jugem.jp/?eid=138 革命よりも維新:http://iey.jugem.jp/?eid=105 革命の時代供http://iey.jugem.jp/?eid=100 革命の時代:http://iey.jugem.jp/?eid=95 革命前夜:http://iey.jugem.jp/?eid=93が、そのうち橋下さんが現れ、「維新」を掲げはじめました。なるほど、日本なら「革命」でなく「維新」か…と、私は納得しました。なぜ「革命」ないし「維新」が必要と思ったか。みんなが現状に黙々と付き合って行くのは笛吹きについて行くネズミのようなもので、みんなで溺れに行くに他ならないと思ったからです。今歩いている方向は違う!と叫ぶ誰かが出てくるべき(「お前がやれ」ですが、私の声では誰も耳を傾けません。)…というのがその理由でした。最近までの政治の世界では、与党がどこで野党がどこでも、お互いに相手のやることを違う違うと罵り合いますが、どちらの言うことも笛の音色の良し悪しを議論しているにすぎませんでした。必要なのは「行く先を変えろ!」と叫ぶことで、橋下さんはそれをやってくれました。そういう意味で、私は橋下さんには革命家の才能があると思っています。

桜宮高校もいつのまにか誰かが吹く無気味な笛の音に従って歩いていました。先頭を歩いていた少年が溺れ、それを見ていた周囲が騒ぎだして、笛吹きに従って歩いていた集団は混乱に陥っています。こんな集団の中の、さらにその病巣中心部分にイノセントな新入生を入れることなどとんでもない…という当たり前のことにすぐに気付かない私自身も、自分では笛の音に敏感な人間のつもりで実は笛の音について歩いている一匹のネズミと化していたのかも知れません。逆に、橋下さんは、この「笛の音」に、非常に敏感な人です。もしかするとそこに何か彼にとってのトラウマがあるのかも知れません。

なお、以上の文中私は一回も「体罰」という言葉を使いませんでした。私は、信頼できる自分の子供の先生には体罰も構わない、とお伝えしています。

大学の恩師である、故 大阪市立大学名誉教授 生澤雅夫先生が、私がある文章の執筆をお願いした際に言っておられたことが忘れられません。先生は教育心理学・児童心理学・発達心理学に対する見識も当然お持ちでしたが、その先生がこう仰いました。「子供を育てるのに体罰が必要なのは当たり前だ。必要もないのにむやみに暴力を使う馬鹿が後を絶たんから現代のような困った議論になる。」

私は、桜宮高校で行われたことは「体罰」ではなく、純粋な「暴力」であり「いじめ」だったと思っています。



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長期間更新を休止しておりましたが、復活させることにいたしました。今後ともよろしくお願いします。