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民主主義の黄昏

 

 

(1)決壊する民主主義

 

以前にも書いたのですが、民主主義とその根本ツールである「選挙」は、うまく適切に人間社会を運営していく仕組みとしては脆弱なものである…ということが最近次々に証明されている、と私は思います。

英国のEU離脱投票、フィリピン大統領、韓国の政情、そして米国大統領選。しかもこれで終わりではありません。ヨーロッパの英国以外の国々もポピュリズムの嵐到来の気配ビンビンです。人間、生きていく上では日頃より「民主主義も選挙も、万全の信頼を置けるものではない」という見切りと覚悟が必要だと思うのですが、どうも第二次世界大戦後世代は(物心ついてから、という意味では今やほとんどの人がこれに該当すると思いますが)日本国民のみならず世界的にこれらを「絶対的な正義」と信じ込んでしまっている感じがあります。

これまで盤石と信じていた堤防が大雨の中次々と決壊していく様子を見るように、民主主義ってこんな風に壊れていくんだ…と目の当たりにすることが、驚きを通りこして感動的ですらあります。

私は、以前にも書いた通り、民主主義も選挙も全然評価できない人間なので(もちろん生まれてからこの方、民主主義のありがたみを存分に享受して生きており、それに対する感謝はありますが信頼するものではない、という意味です)この状況を見て心配になる、なんてことはなく、むしろ自分の予想が的中した快感しかない状態です。

考えてみれば、民主主義なんて、古代ギリシャで生まれたものですから、現代にマッチしているなんて考える方がどうかしている、ともいえます。今日世界的な、2千年以上昔に中東の一角に生まれた神が実は現代に全くマッチしないのと同じです。確か古代ギリシャの民主主義も、詭弁家煽動家たちが現れ、やがて衆愚政治へと変質して崩壊…と、現代と何ら変わらない崩れ方をしたのではなかったんでしたっけ。

物理学の世界では「コペルニクス的転換」の言葉があるように、亀の甲羅に乗った四方滝の平板な大地から球体になり、自分中心に天が回っていたはずが太陽の周りを回り始め、終には無の一点から膨れ上がった気の遠くなる巨大な宇宙の中の芥子粒にもならない微小な存在へと認識が更新され続けているのに比べ、政治や宗教は何千年も転換を生まずにいます。

ところで、こんな世界的な情勢の中で、現状でわが国は民主主義が比較的うまく機能しているように見えます。現代民主主義の元祖米国すらご存知のような状態の中で、なぜなのでしょう。最近私は、実は日本の民主主義は西洋生まれの本来の民主主義とは違うのではないか、という思いに至りました。敢えて表現するなら「和製民主主義」。

 

クロード・モネ  上:黄昏、ヴェネツイィア(1908)

         下:ラ・ジャポネーズ(1876)

ご存知印象派の代表的画家の一人モネは、ゴッホなどと並んで、当時の仏芸術界に流行して

いたジャポニズムの影響を強く受けていました。「ラ・ジャポネーズ」はその代表作。和が

洋の影響を受けたことだけに注目が集まりがちですが文化の進展という視点からいえば、洋

に和が影響を与えるのもいいことですよね。

 

 

(2)和製民主主義

 

考えてみれば、わが国は、有史以来(もしかすると有史以前から?)海の外からやってきたものをすんなり受け入れて、それをもとの形が無くなるほどいじって自分たち向きにカスタマイズする、というやり方がめちゃくちゃ得意でした。こうやっていろいろなものを「和製化」してきましたが、現在のわが国の民主主義も、全くそういうカスタマイズモデルの一つではないだろうか、と思い至ったわけです。私が思うそのカスタマイズの方向は、「禮之用和為貴」(礼はこれ和を用って貴しと為す)…すなわち、我が国に古くから根付いている儒教の教えに寄せていくことです。ちなみに、儒教はよく朝鮮半島に最もその影響が残っているように言われますが、私は違うと思っています。朝鮮半島に儒教の影響が残っているように見えるのは「目上」「目下」(朝鮮半島では「甲・乙」というらしいですが)という階層付けに基づいた礼儀の形式であって、その精神は全く残されていないと思います。儒教のルーツ中国も朝鮮半島も、王朝(政権)が変わると、前の王朝(政権)の血筋を徹底的に粛清しようとします。韓国では現代でもそれが厳然として続けられています。そして、血筋のみならず価値観も前のものを徹底して抹殺しなければ気がすみません。(これ、「易姓革命」というらしいですね。http://oboega-01.blog.jp/archives/1063732391.htmlで知りました)これに、中国の場合は紀元前にすでに焚書坑儒をやっており、共産党政権下でも徹底した儒教思想撲滅運動をやっているなど、具体的に儒教思想を葬り去る活動も加わっていますから、形式的なものもなにもきれいさっぱり無くなっていますし、韓国においては支配者に都合のよかった「甲・乙」の階層付けとそれに伴う礼儀の形式だけが残り、その精神は全く失われてしまっていると思います。

一方我が国においては、儒教も平常運転で、自分たちに合うように大胆にカスタマイズして、有史以来現在にいたるまで日本社会に根強く残ったままになっています。中国や朝鮮半島、また、欧州諸国やロシアでも、その時々の支配者層は被支配者層に苛烈な施政を行います。だからこそ、革命が起きれば文字通りの「血で血を洗う」恐ろしいものになります。一方わが国の場合、最初に権力の頂点に立った支配層が持ち込んだものこそが「上に立つものは高い徳を持っているべき」という儒教の思想であったため、そのまま「徳の頂点=権力の頂点」として象徴化してしまい、以後、実権が誰の手にあろうが、頂点は徳と権力の象徴である天皇にあり、いかなる実権力者もそれは為政上の最高権力者に過ぎない、という独特の構造ができあがりました。そんな構造の中で、権力争いに一般庶民が巻き込まれることも少なく、また、「血で血を洗う」革命が起きる必然性も生まれなかったと思われます。時の為政者も常に「徳のある政」を心掛けねばならず、一般庶民はまた、命がけで権力を転覆しようとする必然性に駆られることもほとんどなかったのではないでしょうか。そう考えると、象徴天皇というのは、太平洋戦争後米国によって定められたものでもなんでもなく、天皇家が実権力を失った室町時代あたりからすでにそうなっていた、ということだったと考えられます。

 

エドゥアール・マネ フォリーベルジェールのバー(1882)

モネより8歳年上のマネも、私は印象派の画家と思い込んでいたのですが、実は印象派展に

出品したことはないそうです。パリで後に印象派となる画家グループの中心で活躍していた

ことから、私がそんな思い込みをしていたのかも知れません。

 

(3)おすすめWa-cracy”cocktail

 

ちなみに、私たちは戦後流行したマルクス史観と米国の「戦前の日本は全て悪」という教育によって、江戸時代には士農工商というインドのカースト制度のような厳しい身分制度があり、支配階級の武士に対して農工商といった庶民はこびへつらって生きていたように印象付けられてきましたが、実際にはそのようなものではなかったようです。「切り捨て御免」なんて言葉はありましたが、そのようなことはよっぽど庶民が武士に対して無礼なことをした場合に限られた話で、もし武士が庶民を殺し、その原因が理不尽なものであったりすると、切った武士の方が厳しく罰せられ、お互い命がけであるという意味では平等だったということができます。江戸時代の武士といえば、現在の公務員といった感じであり、もちろん階級制度ははっきりしていたものの、支配‐被支配という関係性ではなかったと思われます。このようにして、我が国以外の国々の「支配者対非支配者の対立」の構図ではなく、為政者はつねに徳のある政治を心掛けなければならず、一般庶民はある程度そういう為政者を信頼して為政者の方針に従うという形で協力する、という、我が国独特の「共存共栄の構図」が少なくとも数百年前から続いていたと思われます。そこに、明治維新以降に持ち込まれた西洋式民主主義、太平洋戦争後に持ち込まれた米国式民主主義を付け加えてさらにカスタマイズしたのが現在の我が国の和製民主主義なのではないか、と私は考えるわけです。

和製民主主義のいいところは、為政者に徳を求め、また、その政策についても為政者も被為政者も民にとって益のあることが最重要だと考えるところです。そのため、詭弁家煽動家が現れて衆愚政治に傾きかけても、それが理屈や感情の流れに乗って暴走を始める前に「徳と利」の面から抑制がかかるところにあります。(もっとも、我が国でも太平洋戦争前夜頃はこの流れを抑制しきれませんでしたが)

理屈や感情は目的地を持たず勝手に増殖し溢れだし低きに流れ、いずれ土石流のように周囲を引きずり込みながら巨大化し、破綻を迎えるまで止まりません。これこそが古代ギリシャ生まれの民主主義の最大にして致命的な欠陥であることは、最近の米国や韓国を見れば簡単に分かります。さらに、あのナチスさえも「民主主義」から生まれたことを考えれば、民主主義なんて、右から見ようが左から見ようがそんなことは関係なしに、あんまり大したものでもあてになるものでもない、ということがはっきり見えてきます。何であれ「原理主義」というやつは困りものでしかなく、それは「民主主義原理主義(変な言葉ですが)」においても同じです。

それより、中国や北朝鮮のような化石のような独裁国家以外、形態としてはいろいろあっても最低限の民主主義がベースにある社会の中で、この「理屈と感情」の土石流被害をいかに未然に防ぐシステムを持つか、というのが現代社会の最重要課題ではないでしょうか。

そういう中で、我が国のもつ「和を以て貴しと為す」をルーツとする「徳利」志向は、西洋生まれの民主主義という度数は高いが味わいの乏しいベースに対して味わいと飲みやすさを与えるリキュールの役割を果たし、とても良いカクテルになっているような気がします。

名付けて「WA-cracy」カクテル。こんなアイデア、どうでしょうか…。


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長期間更新を休止しておりましたが、復活させることにいたしました。今後ともよろしくお願いします。