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退屈のわけ


ブロンズィーノ《愛のアレゴリー》
「マニエリズム」といえば一番に出てくるのがこの画。「マンネリ」の語源となった「マニエリズム」ですが「マンネリな絵画」をイメージさせるものとは違います。
簡単に言うと、ミケランジェロの開発した手法(マニエラ:今風に英語で言えば「マニュアル」ということでしょうね)が高く評価されるとともにそれを模倣する人たちが現れる。すると今度は、その模倣者たちの作品(マニエリズム)は型にはまった力のない作品だと非難する人が現れる。そこから「マンネリズム」という言葉が生まれた、というわけです。マニュアル人間はマンネリ人間でもあるわけですね…
 

 

以前にも触れましたが、テレビの視聴率低迷が止まらないみたいです。

最近、多分現在の視聴率男No.1であること間違いなしの明石屋さんまさんがテレビで「この頃テレビが面白くないような気がする」という発言をするのを何度か目にしました。

やしきたかじんさんが病気から復帰し、先週から番組に登場されています。私は番組MCとしてのたかじんさんのファンでもあるので興味を持っていたのですが、そのたかじんさんが復帰早々の番組の収録現場か何かで「AKB48が嫌いで、テレビ番組で『A…』と聞いただけでチャンネルを変える」と発言していたとのこと。

最近のテレビというと、檀蜜さんというアラサ―のセクシーグラビアアイドルがやたら露出されています。実は私、たかじんさんにとってのAKB48と同様に、最初は檀蜜さんの『ダ…』の字を聞くとチャンネルを変えていました。いい歳の親父とはいえ私も一塊の男なので、セクシーな女性が決して嫌いなわけではないのですが、何かテレビで檀蜜さんを見ると「イタイ」感じがして正視していられない気になるのです。でもそのうち慣れてきて、今は全く気にならなくなってしまいました。ただ、彼女が画面に現れると必ずしばし番組MCや共演者から「セクシーいじり」があるのを見せられるのは退屈ですが。

退屈といえば…たしかにAKB48のメンバーが出てくる番組というのは退屈です。また、お笑い芸人さんたちがたくさん出てくる番組も、運動会やカラオケ大会みたいな番組は「テレビ番組じゃなくて身内でやってください」という感じです。

私は、昨今のお笑い芸人さんたちの芸や話術みたいなものはすごくレベルが高いと思っていて、芸やトーク主体の番組は決して退屈とは思わないのです。彼らの「人を笑わせる技術」は鍛え上げられています。でもそれは希少な資源なので、これほど多くの番組を埋め尽くすほどの絶対量がありません。ひどく希釈され、使いまわされて、せっかくの「高い技術」もテレビ番組を魅力あるものに役立っているものは僅かです。

ドラマの類は…以前「踊る…」の悪口を書きましたが、テレビドラマは全くといっていいほど見なくなりました。それこそ、文字通り「退屈」としか感じられません。(最近では「信長のシェフ」と「泣いたらあかんで通天閣」はなぜか退屈せずに見ました)

メディアが増えた…というのは勿論ありますし、その中でテレビのウェイトは下がっているでしょう。

そして、退屈…「退屈しのぎ」がコアコンピタンスであるはずのテレビの最大の問題が「退屈」とは…。

人はなぜ退屈するのでしょうか。それは、期待した以上のもの、期待した以外のものが出てこないからです。

そういえば檀蜜さんは、どうしてそんなにセクシーでいられるのかと聞かれたところ「セクシーでいるにはあきらめが必要」という興味深い答えを返していました。どういう意味かと言うと、自我をあきらめて男性(カメラマン等)が求めてくるものに無心に応えることが必要、ということでした。やはり突き抜ける人は考えています。

そして、檀蜜さんのセクシーは彼女の個性ではなく、男性が女性に求めるもののステレオタイプな鏡像なのです。

だから、中には私のように檀蜜さんのセクシーさを「退屈」と感じてしまう人間も少なからずいるのかも知れません。

テレビを再び退屈でない存在にするためには、視聴者が期待する以上のもの、期待する以外のものを見せていくことが必要でしょう。

一時「おバカタレント」さんたちが視聴者ウケした時期がありましたが、あの現象はあきらかにタレントさんたちが「視聴者の期待以外」の反応をたくさん示したからだと思われます。その証拠に、彼らが芸能界で活躍を続ける中で徐々に常識を身につけていくことで「おバカタレント」としての魅力はほとんど消えてしまいました。要するに、タレントさんたちはおバカでなくなる一方視聴者のおバカさんに対する予測の精度が高くなり「期待以外」の発生がなくなってしまった、ということなのでしょう。

テレビも一般家庭に登場して50年近く。これ以上に一般の人々に影響を与える媒体はもう現れないだろうと思っているうちにウェブが普及しだして15年近く。どのような媒体も黎明期のインパクトは薄れ、時とともにマンネリ化していきます。

期待以上・期待以外…このマンネリを打ち破るキーワードはこれなのかも知れません。



ジュゼッペ・アンチンボルト 《四季「夏」》
この画家は、果物や花などの静物を集めて肖像画を描いたことで有名。
後のダリを代表とするシュルレアリストたちも好んでこのような「だまし絵」を画きましたが、この人はそういう手法の魁かも。なんだ、決してマンネリじゃないじゃないですか。


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「過激」は罪か?


フランシスコ・デ・ゴヤ《我が子を喰らうサトゥルヌス(黒い絵)》
『本作の主題は、天空神ウラノスと大地の女神ガイアの間に生まれた6番目(末弟)の巨人族で、ローマ神話における農耕神のほか、土星の惑星神や時の翁(時の擬人像)としても知られるサトゥルヌスが、我が子のひとりによって王座から追放されるとの予言を受け、次々と生まれてくる息子たちを喰らう逸話我が子を喰らうサトゥルヌスの場面である。』とのこと。発言の過激さと発言者の出す毒の強さは別であるように、作品のテーマの過激さと作家が出す毒の強さは別物です。
以前「維新伝心供廖
http://iey.jugem.jp/?eid=159)でご紹介したヒトラー(数百万人を死に追いやった張本人)の画は、拍子抜けするほど毒のないものでした。

宋文洲さんの「尖閣に隕石が落ちたらいいのに」というテレビでの発言が取り沙汰されているようです。番組中アナウンサーが謝罪したり、スポンサーへの配慮で今後彼がテレビから締めだしを食うのでは、と言われたり。しかし彼は、ツイッター等で「なぜお詫びしなくてはならないのか分からない」など「逆ギレ」していると報じられています。

私はここ数年、日経ビジネスへの連載から彼を知り、連載終了後月に1回希望者に送ってくれるメールマガジンを愛読しています。そうこうするうち、宋さんの顔をテレビでも頻繁に見るようになりました。

テレビで見る宋さんの印象は、その文章から受ける印象とかなり違います。やはり中国の人なので、日本人とは物腰が違い、常に感情を抑えながら話す人が圧倒的に多い日本人から見ると話し方がちょっと怒鳴り気味に聞こえてしまいます。一方、文章を見ると、非常に聡明で洞察力があり、同時に感情も豊かな人であることが良く分かり、決して感情に任せて危ない言葉を吐き散らすタイプでないことがはっきりと伝わってきます。

私は、一日本人として外国人の彼の「日本愛」にいつも感謝を覚えるとともに、彼が控えめですが「祖国愛」を語るのも当然だと受け取っています。だって、中国の人ですから。中国の人の「祖国愛」は日本人から見ると複雑です。日本人は郷土愛をそのまま祖国愛に持ち込めば済む話ですが、中国の人は、郷土愛=祖国愛…というわけに行きません。「祖国愛」は政府の管轄下なのです。宋さんが控えめに「祖国愛」を語るのは、実は「祖国愛」ではなく「郷土愛」を語っているからです。ちょっと言葉の使い方が正確ではないですが、私がここで使い分けている「祖国愛」と「郷土愛」については、前者が政治的用語としての「愛国心」に置き換えられるものであるのに対して、後者は一言にすると「自国文化への愛」を指しています。

脱線してしまいましたが、そんな宋さんが言った「尖閣に隕石が…」という言葉が、なぜそんなに問題なのか実は私にもよく分かりません。宋さんがそういう発言をした理由は宋さんの愛する二つの国の争いの種がいっそ消えてくれればいいのに…というシンプルな思いであったと思うし、尖閣には誰も住んでいるわけではないので、犠牲者が出ることを無視した発言でもない。さらには、ロシアへの隕石落下でけが人が出ていますが、だからといってこの人たち揶揄するような不謹慎な発言でもない。むしろ、人の住むロシアの街より東シナ海の無人島に落ちた方が…というのは極めて全うな考え方です。尖閣が地図から消えれば確かに日本は領海の問題で多少損はするでしょうが、一方的に日本の損失を願う言葉でもない。つまり、発言にはどこにも関連両国への一方的な肩入れや不謹慎を責められる要素はないのです。宋さんがなぜ詫びなくてはならないのか分からない、と発言されるのは尤もなことです。

なぜ取り沙汰されるか…発言が「過激」だったからです。過激な、つまり刺激の強すぎる言葉だったから、聞いた人は思わず驚き、人を驚かせる言葉は悪いこと、と判断されてしまったのです。これは、橋下大阪市長の発言などでもよく見られる現象です。

ところで私は自分で自分のことを「祖国愛」「郷土愛」の強い人間だと思っていますが、日本人の多くが持っているこの「過激嫌い」がとても嫌いです。「『過激』の何が悪い!」と思ってしまいます。確かに劇薬はリスクも高いのですが、一方でそれが劇的に効を奏することがあるのもまた事実です。「波風を立てないことが美徳」という考え方は、結構日本人の心に深く根付いているようですが、私はそれは決して美徳ではないと思っています。

話は変って、元駐中国大使の丹羽さんが事実上解任されて時間が経ち、そろそろ注目が去ったところで思い切り言いたい放題を発言しています。「日本が波風を立てたのだから日本が悪い」という主旨です。このような発言は、中国政府ではなく中国の人々に「ほら、やっぱり日本人だって実は日本が悪い、と思っているじゃないか」と考えさせるものであり、尖閣問題をますますエスカレートさせる、百害あって一利無しの言葉です。言葉には宋さんの言葉のような過激さはありませんが、害毒の強さは比較になりません。

同じような元企業家(と言っても一方は留学生からベンチャー企業を育てたチャレンジャー、一方は大企業で「波風立てずに」順風満帆に出世した純日本型経営者)が、同じ問題に対してした発言で、一方は毒はないが毒々しい見た目であったためにたたかれ、一方は猛毒を持つが地味な見た目で見逃される…これも一つの日本文化だ…というところに、私が最も嫌いな「日本」があります。

ちなみに、私、宋さんは本当に日本に対しても中国に対しても強い愛情があるのだと思います。一方、丹羽さんは、日本に対しても中国に対しても愛情が極めて薄い人だと想像します。そうでなければ、一連の発言の意図が説明できません。


フランシスコ・デ・ゴヤ《180853日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺》
ナポレオンがスペインに侵攻して占領した翌年、スペイン独立戦争の最中マドリッドで反乱を起こした400人をフランス軍兵士が銃殺する様子を描いたもの。
テーマは過激ですが、ゴヤ自身一人の人間を殺したわけでも、また殺した兵士を非難したわけでもありません。銃殺隊の隊員は横―後姿で描かれており、むしろはっきり描かれているのは殺される側の人々の表情です。

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嫌な予感

 
サルバドール・ダリ《ゆでたインゲン豆のあるやわらかい構造:内乱の予感》
スペイン戦争の始まる予感を描いたものだそうです。なにはともあれ、ダリの画はおもしろい…

私、自分には若干占いの才能があるのではないかと思っております。

2011121日「未来4(http://iey.jugem.jp/?eid=101)」では「これから何が起こるのか、楽しみでもあり無気味でもあり…何も起こらないのかも知れませんし…いずれにしても我が極東の不沈艦はまだ当分の間、波間にその姿を隠してしまうことはないでしょう。中身がどうなっているかはともかく…」と書いてからちょうど50日後に東日本大震災が発生しました。

20101123日「革命前夜(http://iey.jugem.jp/?eid=93)」では「日本の政治制度そのものが国家を支えきれなくなっています。にもかかわらず、その根幹部分に新しい構想を持った政党などは存在しませんし、また、もしそのような政党があったとしても、現状の制度の中から選挙に勝って大勢を占めて国民を説得して政策を通して…なぁ〜んてやってたら、次の世紀になってしまいます。」と書いた約半年後に「大阪維新の会」が大阪府知事・大阪市長W選を含む統一地方選の大阪で大勝し、国政へと向かうことになりました。

20091015日「プロ(http://iey.jugem.jp/?eid=29)」で「私は現政権がいつかどこかで何か大失態をやらかさないかと内心ちょっと心配しています。いつも書いている通り、私はのんびりのノンポリなので政権担当が何党だろうが構ったことではないのですが、現政権は見るからに素人っぽい印象です。」と書いた直後に、普天間基地問題を皮切りに民主党の「大失態 オン パレード」が201212月の衆議院選挙まで続きました。

と、占い自慢はこれくらいにして…

私、とんでもない予測をしています。

中国は、7割程度の確率で尖閣諸島領有権問題で武力を使うと予想しています。日本は決して先に武力を使うことはしないでしょうが、みなさんご承知の通り、けんかなんて始めてしまえば「相手が先に手を出した」と言い張るのは一番簡単にして当然のこと。おまけに、スポーツと違い誰も審判している訳ではないので、そこに意味はありません。太平洋戦争でルーズベルトが日本に先に手を出させるように仕向けたのは、正義のためではなく米国民を戦争に賛同させるためでした。

さらに、中国とは、まさに真実がどこにあるかなどどうにでもしてしまう天才の国です。あらゆる模倣・偽造・欺瞞が百花繚乱の13億人の巨大怪物の前に、どこの領土なのか、どちらが先に手を出したか、などの「真実」はけんかの枝葉末節に過ぎません。現在どうせ日本が持っているのなら、けんかして自分のものになれば得、負けても大して失うものがない…となれば、けんかをする方が論理的に正解です。従って、歯止めがあるとすれば「負けたら失うものが大きすぎる」と感じることなのですが、経済力に自信を持った中国には現在あまりそれを感じる理由はありません。唯一あるとすれば、国民の不満が爆発して共産党政権が崩壊する危険性ですが、永い一党独裁政権の下で、13億を仕切る力のある組織が他に育っていないことから、政権にはそれを抑え込む自信があるでしょう。

さらに、中国は長い時間と膨大なコストをかけて軍事力を増強してきました。それをいつ使うんですか…今でしょ!…と、冗談を言っている場合ではないのですが、そう考える確率は非常に高いといえます。

加えて、決定的なことは、あのスモッグに象徴される国内問題です。たかがスモッグ、と侮ることはできません。永年の中国式高度経済成長の追求から生まれた副産物であり、もちろんスモッグのみならず、中国の国のありようと深く結びついた巨大な問題が、解決不能の状態で中国国民全体の上に重くのしかかっています。これが民主国家なら、国民全体ののたうちが政権の交代という形に転化されてガス抜きされるのですが、一党独裁の国であってはそれもできません。つまり、政府が目論もうが目論むまいが、国民の鬱憤は外に向かうしかないのです。

なんでこんなことを書くか…それは、私自身「自分の国そのものが武力紛争に巻き込まれる」なんてことをこれまで想像したこともないし、実感が湧かない…という中で、ある種の覚悟が必要だ、と思うからなのです。それでもさすがに、太平洋戦争のように自分の上に戦火が降りかかって来るとは思っていないものの、武力紛争が起これば、中国と相互依存の度合いを深めている日本のビジネスシーンはどうなってしまうのだろう…と、考えてしまいます。直接的には中国と何のビジネス的つながりのない私ですらその状況の激変を不安に思っているくらいですから、実際ビジネス上で中国と深くつながっている企業さんたちの不安はいかばかりか…と思う反面、現代の日本では、私同様誰もが自国が武力紛争に巻き込まれるなんて考えもしなければ実感もない、というのが本音ではないかと思い、それはそれでもっと不安な状況だな、と思うわけです。

日本が他国と戦火を交えることがある…なんていう覚悟があるのは、実は現在75歳以上くらいの年齢の人に限られています。

でも、それが現実として目の前に迫ってきました。そうなれば、実際武力の場にいなくともビジネスをはじめ生活のいろいろな局面でその影響を受けるのは必至です。

…という全てが、当てにならない似非占い師の杞憂になればいいのですが、最悪の場合の心の準備をしておくに越したことはない、と思い、こんなことを書いてみました


サルヴァドール・ダリ妄想症的=批判的都市の郊外|欧州戦争の境界の午後


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「笛を吹く男」の恐怖


エドゥアール・マネ 上《笛吹く少年》 下《草上の昼食》
マネは印象派の代表的な画家の一人ですが、私にはマネの画が「印象派的」であるとはあまり感じられません。「笛吹く少年」も、17世紀バロック期のベラスケスの作品にインスピレーションを得て描いたものと言われています。
下の画はいかにも不謹慎な想像を呼びこすシーン設定ですが、事実、マネのねらいもそこにあったようです。権威の肥大化したパリのアカデミーに出展するも落選し、権威も権力もを失いつつあった第二帝政時代のナポレオン三世によってアカデミーへの当てつけに行われた「落選展」で物議を醸す、という、何ともややこしい出自の画です。当時、写真が一般に普及しだした中で、絵画と写真の「役割」の分化が生じた時期でもありました。猥褻な写真の販売は禁じられていたとのこと。この画もそうですが、そういう意味でマネの画には時々その「微妙な」ところを突いたのでは…と思わせるものがあります。

大阪市立桜宮高校の問題について…私にも高校生の子供がいますので、同世代の子供が亡くなったことに心の痛みを感じますし、年中子供を殴っていた馬鹿教員やそれを放置していた学校の大人たち全部に怒りを感じます。

それは当然のこととして、橋下大阪市長がこの問題に対して、桜宮高校の体育課の入試の中止を要請したことが物議を醸しています。

テレビ等で見ていると「目指していた子がかわいそう。子供に罪はない。」という理由で橋下市長の要請に批判的な人が大勢を占めているように見受けられます。

このような批判に橋下市長は明石家さんまさんの名言「生きてるだけで丸儲け」という言葉を使うなどしてその批判ないし非難をはねつけていました。

実は私も当初「そこまですると、事実上関係のないこれから入学しようという子に影響が及ぶから…」という理由で橋下市長の要請には疑問を感じていました。

が、よく考えてみて、今は、やはり橋下さんの判断は正しい、と思っています。なぜか…

この問題は一人の暴力教師と一人のその暴力によって追い込まれて自殺した高校生の問題ではありません。そういう状況が正々堂々と公認されていた体制そのもののはずです。下手をすると、学校全体ではとどまらず、周辺で関与していた社会全体が病巣ともいえます。自殺した少年は一暴力教師の暴力に耐えきれず自殺したのではありません。私は確信しているのですが、単純な苦痛や絶望で人はなかなか自殺しません。人を自殺に追い込む最大の要因は何か…この世に対する「諦め」です。自分に対する諦め、周囲に対する諦め…自分がもはやこの世にいる意味がない、と感じた時に人は死を選ぶのです。

そして、自殺した少年をそう考えさせたのは当の暴力教師よりも、むしろ彼の周辺にいた全ての人々の方だったかも知れません。そういう意味で、学校はもちろん同級生たちにも、家族にすら責任があると私は考えます。徹底的なことを言うなら、学校を廃校にしてもおかしくない事態です。

私は2年ほど前に何度かこのブログに「現在の日本には革命が必要」ということを書きました(維新伝心:http://iey.jugem.jp/?eid=150 革命の時代掘http://iey.jugem.jp/?eid=138 革命よりも維新:http://iey.jugem.jp/?eid=105 革命の時代供http://iey.jugem.jp/?eid=100 革命の時代:http://iey.jugem.jp/?eid=95 革命前夜:http://iey.jugem.jp/?eid=93が、そのうち橋下さんが現れ、「維新」を掲げはじめました。なるほど、日本なら「革命」でなく「維新」か…と、私は納得しました。なぜ「革命」ないし「維新」が必要と思ったか。みんなが現状に黙々と付き合って行くのは笛吹きについて行くネズミのようなもので、みんなで溺れに行くに他ならないと思ったからです。今歩いている方向は違う!と叫ぶ誰かが出てくるべき(「お前がやれ」ですが、私の声では誰も耳を傾けません。)…というのがその理由でした。最近までの政治の世界では、与党がどこで野党がどこでも、お互いに相手のやることを違う違うと罵り合いますが、どちらの言うことも笛の音色の良し悪しを議論しているにすぎませんでした。必要なのは「行く先を変えろ!」と叫ぶことで、橋下さんはそれをやってくれました。そういう意味で、私は橋下さんには革命家の才能があると思っています。

桜宮高校もいつのまにか誰かが吹く無気味な笛の音に従って歩いていました。先頭を歩いていた少年が溺れ、それを見ていた周囲が騒ぎだして、笛吹きに従って歩いていた集団は混乱に陥っています。こんな集団の中の、さらにその病巣中心部分にイノセントな新入生を入れることなどとんでもない…という当たり前のことにすぐに気付かない私自身も、自分では笛の音に敏感な人間のつもりで実は笛の音について歩いている一匹のネズミと化していたのかも知れません。逆に、橋下さんは、この「笛の音」に、非常に敏感な人です。もしかするとそこに何か彼にとってのトラウマがあるのかも知れません。

なお、以上の文中私は一回も「体罰」という言葉を使いませんでした。私は、信頼できる自分の子供の先生には体罰も構わない、とお伝えしています。

大学の恩師である、故 大阪市立大学名誉教授 生澤雅夫先生が、私がある文章の執筆をお願いした際に言っておられたことが忘れられません。先生は教育心理学・児童心理学・発達心理学に対する見識も当然お持ちでしたが、その先生がこう仰いました。「子供を育てるのに体罰が必要なのは当たり前だ。必要もないのにむやみに暴力を使う馬鹿が後を絶たんから現代のような困った議論になる。」

私は、桜宮高校で行われたことは「体罰」ではなく、純粋な「暴力」であり「いじめ」だったと思っています。



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ワクワク中年の話


ジャック=ルイ・ダビッド《サン・ベルナール峠を越えるナポレオン・ボナパルト》
この画を知らない人は少ないでしょう。ナポレオンといえば、コニャックかこの画が思い浮かぶのではないでしょうか。
考えてみれば、ダビッドは私の最も好きな画家の一人であるにも関わらず、このブログには「レカミエ夫人」の1点をご紹介したくらいで、今までほとんど登場していませんでした。不思議です…
この勇壮感、充実感、無敵感、自らへの信頼感…「余の辞書に不可能の文字はない」と言ったという逸話も、この画を見れば信じるしかない、という気にさせられます。
まったく、爪の垢が現代に残っていたらどんなに高価でも買って煎じて飲みたいものです…


私は「人生全て塞翁が馬」という言葉を座右の銘にしています。

この言葉は、人によっては「成り行き任せ」ととらえる向きもあるようですが、私はこの言葉にこれっぽっちもそういう意味合いが含まれているとは思いません。一言で言えば「幸運があっても驕らず、不運があっても嘆かずに常に平らかな気持ちで人生に当たれ」という意味だと考えています。「一喜一憂するな」に近い意味だと考えています。

人間、何事も全て意志の力で自らの意図したことしか行わず意図した結果しか結果と認めない、というタイプの人もいますが、私は「人の意志と力だけで意図した結果を導くのは不可能」と考える人間です。努力の価値を認めない気持ちも努力を放棄する気持ちも全くありませんが、「運」あるいは「運命」の影響がゼロであるとはとてもではないが考えられません。昨年末、私の周辺で、普通ならあと数十年は生きるべき人が立て続けに無念の最期を迎えられ、この考えはますます強固になっています。

ただ、その「運」ないし「運命」が、良い方に転ぶようにする、ということは必要だと以前から考えていました。誰も「運」「運命」が良い方に転ぶように「努力」することはできません。「こうすればよい方に転ぶだろう」という予測がつくものはそうなるように努力するのみです。「こうすればこうなる(可能性が高い)」のが分かっているわけですから。問題は、やった方がいいのか、やらない方がいいのか、という判断を迫られた時です。何でもやらないよりやった方がいいように思いがちですが、意外とそうではありません。どちらがいいかは運・運命次第です。あなたは車を運転してトンネルの中を走っている。長いトンネルに入って大分経ったところで、自分の走っているすぐ先で崩落事故がはじまった。アクセルを踏み込んで崩落の向こうへ抜けるか、急ブレーキを踏んで崩落の手前で止まろうとするか…。

車を走らせているので「何もしていない」わけではない。アクセルを踏むのは積極的、ブレーキを踏むのは消極的に見えるが、どちらも危機回避のための「努力」をしていることに変わりはない。

極端な例え話をしているようで、実は人生にはこんなシーンが頻繁に起り得ます。こんな時私はというと、自分の気持ちに忠実に動くようにしています。運・運命はどちらへ転ぶか分からないし、私にはどちらかへ転ばせるよう努力する術もない。

後は後悔しないことでしかなく、それが「人生全て塞翁が馬」の真髄です。

なぜこんなことを書いたのか…仕事の上で、やろうかやるまいか迷った揚句、やることにした。やったことが良かったのか悪かったのか…どちらかというとやらない方が良かったのではないかと思ったので次はやらない方を選択した。すると今度は、やっぱりやった方が良かったのではないかと思いはじめ、次は…と悩んでいると、最初の判断の「やったこと」も次の判断の「やらなかったこと」も結果ALL RIGHTとなった…なんてことを繰り返しながら、延々悩んでいる自分がいるからです。

昔の人は40歳を「不惑の歳」なんていいましたがとんでもない。それは「人生わずか50年」と言われた時代の話。私などは幾つで死ぬか知りませんが、その日まで「惑惑」していることでしょう。

1月もすでに終盤を迎え、今年も無事「惑惑」した一年を過ごせそうです。


ジャック=ルイ・ダビッド《皇帝ナポレオン1世と皇后ジョセフィーヌの戴冠式》
ダビッドは18世紀新古典主義の巨匠。この荘厳、この重厚、この輝き、そしてやっぱり、この自信…自信と確信があることは美しいことである…というのをダビッドは何のてらいもなく見せつけてくれます。同じ人間として、「ワクワク中年」とのこの差は一体何なんだ…


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SNSと「仲間」

 
マックス・エルンスト《友人たちの集うところ》
1922年、エルンストがシュルレアリストの友人たちを描いたもの。向かって左から3番目の禿げた顔色の悪い男性はドストエフスキーで、その脚の上に腰かけているのがエルンスト本人だそうです。
この時代、友人とはこのようにまさに体と体が触れ合う関係でしかなかったでしょう。それは、人が真に心を許した証拠でもあります。

知り合いの方から「お友達」オファーをいただき、2年ほど前からFace Bookに参加しています。

が、参加してからコメントしたのは10回を超えず、友達も先方からオファーしてくれた人のみ10名を超えません。そのわりに、ブラウザのTOPにはちゃんとFace Bookを表示しており、数少ない「友達」の更新は逐一見ています。見ているくせに、それに対して「いいね」ボタンを押すこともコメントすることもほとんどありません。

かなり性質の悪いFace Bookユーザーであることは自認するところであります。

twitterはやっておらず、正直言ってやりたいと全く思っていません。

うーん、職業柄マズイんじゃないか…と悩むところでしたが、このところ、何となく諦めムードというか割り切りムードというか…ま、いいや、という気になってきています。

mixiも、少なくとも5年以上前に、お客様から研究のための招待要請を受け玉突き式に友人に招待要請して参加しましたが、こちらは簡単なプロフィールを登録したのみで、一度もコメントしたことはありません。

そういえば、mixiに参加した頃は、あきらかに50才代の親父をねらった若い女性のヤバいお誘いがさりげなく「足あと」として残されていたのですが、さすがにFace Bookは仕組み上そういう誘惑は発生しないな…と思っていたら、最近散見されるようになってきました。

確かに、私のように性質の悪いユーザーに対して余計に…なのかも知れませんが、メールで「友達かも」というタイトルで全く知らない人を次々と紹介してくるので、逆を考えればそういうアプローチも決してできないものではなくなっています。

閑話休題。

昔から「人との距離感」というものに、物理的にも心理的にも興味があります。私が大学で心理学を専攻した理由の一つに、京阪電車の車窓から見える鴨川縁に座っているカップル達のお互いの距離が測ったように一定だった…というのがあります。「人間は、他人とある一定の距離を置かないと、心理的に緊張を強いられるのではないか…」大阪から岡崎公園の京都市立美術館や京都国立博物館へ行く度にそんなことを思ったのが心理学の専攻へと結びつきました。

SNSは近すぎる…これが私の率直な感想です。「今どこにいる」「今何を考えている」「こんなもの食べました」「こんなもの見ました」「ここで飲んでます」…正直、どーでもいいです。あ、言ってしまった…ごめんなさい。私に友達オファーしてくれた方々に言っているのではないのです。

でも、人間、恋愛真っ最中の恋人同士や未成年の子を持つ親でもない限り、友達と言えども他人が何をしているか何を考えているかなんて逐一知りたいでしょうか…まして何を食べているか、なんて。逆に、私はあまり人にそういうことを知られたくもありません。オープンな性格でない、と言えばそれまでなのですが…。

こんなことを言うと、お前バカか、と言われるかも知れませんが、私、SNSって時代のあだ花じゃないか、と思うんですね。インターネットの技術的な発達が究極に達して、あたかも世界の人間と言う人間がまるごと親友のように付き合える(情報交換できる)時代になった…から、そのためのツールが登場し流行っている…けれど、人は本当にそんなものを必要としているのでしょうか。

それより、あまりに情報過多な時代だからこそ、人が人の情報と快適な距離感を保つことができるようにするための何か…それこそが本当に求められているものなのではないか…50歳を大幅にすぎた親父はそう思うのです。まがりなりにもインターネット業界の端に住む人間の言うことではありませんが…否、もしかしたら、インターネットビジネスの中に、それを実現する何かが見つかるかも知れません。


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2013年に、乾杯!


ニコラ・プッサン《ミダス王とバッカス》
プッサンはフランス、古典主義(バロック)の代表的な画家ですが、後年はずっとローマで暮らしたようです。
バッカス(ディオニソス)は言わずと知れたギリシャ・ローマ神話に登場する酒の神。乾杯の音頭をとっていただくのにこれ以上の存在はないでしょう。


2013年が走り始めました。昨年末のいろいろな意味での失速が甚だしく、年が明けたからと言ってそう簡単に勢いづくものでもありません。が、昨年末の失速が甚だしかったからこそ、例年になく真剣に「なんとか再加速したい」と、年明けから昨年と違いをつけるよう努めている私です。

ところで、新年なので、スケールの大きなお話をひとつ。

「ひも理論家」たちによると、どうやら宇宙はシャンパンの泡のようなもので、生まれては消えしながら10の500乗個以上数存在する…と考えられはじめているようです。

そうでなければ、今私たちがいる宇宙は神様が人間の為に創った…というお話しを信じることになりかねません。

というのは、なぜ、この宇宙は私たち人間が存在することにこんなに都合よくできているのか…という問いに対する答えが2つに一つだからです。つまり、神様が人間の為にこの宇宙を創ったか、あるいは、10の500乗個以上、という想像を絶する数の宇宙の中で、たまたま人間が存在することができる条件を備えていて、また事実存在する宇宙があったか、のどちらかです。科学者にどちらかを選べ、と言えばほとんどが後者を選ぶでしょうし、私もこちらを選びます。

亡くなった親しかった人々のことを考えると「向こう側の世界」を信じたいし神様の存在も同時に認めたい気持はやまやまですが、物理的な世界に情緒の入り込む余地はないよ、と私の中の自然が私にささやいています。私たちはだれも「千の風」になることはできません。生命活動が終わった時エントロピー増大の法則に従って幾種類かの分子となって地球環境に帰っていくのみです。

話を戻して、10の500乗個以上もの数の宇宙はどこにどうして生まれるのか…これが素人宇宙マニアに全く想像がつかないところなのですが、まず「どこに」という問い自体が素人の疑問です。宇宙が生まれるというのは時空が生まれる、ということですから宇宙が生まれる前には時間も空間もありません。文字通りの「無」なのです。では「どうして」生まれるか。「無」は真に「無」ではなく常に何かが生まれては消える「ゆらぎ」を持っているらしいです。ある瞬間、その「無」の「ゆらぎ」が途方もないエネルギーとなって膨らむところから宇宙が始まる、というのが一つの考え方のようです。知らんけど…(語尾にこれをつけるのが大阪人の口癖だとケンミンSHOWで言っていました)

そんな荒唐無稽なこと…と素人にはバカバカしくさえ感じられますが、昨年「ヒッグス粒子」の存在が確認されるなど、少し前まで荒唐無稽と思われた先進的な物理学者の預言が事実であることがどんどん証明されて行っています。

「無」から、たった一つで150億光年立方(この宇宙がどんな形をしているかも分かっているわけではありませんが、立方体であるよりは球体である可能性の方が当然高いでしょう。とすれば、この宇宙の体積は150億光年立方ではなく、4/3×π×75億光年の3乗…ということになります。謹んでお詫びし、訂正させていただきます)もある宇宙が、10の後ろに原稿用紙1.25枚分0をつけた以上の個数(もっとも大きさがみな同じではないと思いますが)生まれるなんて…「無」と「無限」は文字通りの同義語なんですね。

展望「無」に見える2013年、シャンパンの泡を大きさも数も圧倒的に上回る「無」から生まれる泡宇宙に負けずに、「無限」がバンバン生まれてくることを祈って、乾杯!



カラヴァッジオ《バッカス》
イタリア、古典主義(バロック)の画家。北イタリアのフェルガモの近く、カラヴァッジオで生まれ、17歳でローマに出る。
友人を殺してしまうなどでイタリア内を転々とした挙句、37歳の若さで死んでしまう。
何か、ギリシャ・ローマ神話らしからぬ妙な雰囲気の漂う絵だと思いませんか。


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謹賀新年

 

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終わりの歌・歓びの歌


グスタフ・クリムト 《ベートーベン・フリーズ『第3場面 歓喜・接吻』》
クリムトが描いた、ベートーベン交響曲第9番『合唱』の第4楽章『歓喜の歌』を絵画化した作品
何とも日本のこの時期にピッタリの絵画があったものです。
私、濃厚なもの大好きでして、絵画ならダビッド、音楽ならベートーベンやワーグナーの時代がかった大げさなヤツ、ワインは赤のフルボディのドカ〜ンと重たいヤツ…といった具合。
サエなかった一年を、最後だけでもドッカ〜ンと派手に重たく送ってあげましょう。

2012年も終わりを迎えようとしています。世間的には衆院選のお祭り騒ぎで暮れた年の瀬でしたが、個人的には11月半ばに12年付き合った愛犬が逝った後、親族ではないものの私にとって間接的に大切な方が2名、それぞれ2週間と離れずに相次いで年若く逝去され、何だか大事なものを失い続けた一年だったような印象で一年を終えてしまいます。

ビジネス面をみても、私にとって今年は取り柄のない一年でした。昨年までの数年間、something newを求めてあがき続けたことの多くが無駄骨となったため、心・体・経済のバランスシートの問題から今年初め「ちょっと大人しくしよう」と考えた結果、結局「身をすくめて過ごす」1年となってしまいました。でも、当然ですがそれは何も生まないやり方です。

「やってもダメ、やらなくてもダメ、なら、やらない方がマシ」かと思ったのですが、そうではなかったのかも知れません。とはいえ、済んでしまったことは分かりません。「たら・れば」はないのが世の常。それに、私の座右の銘は「人生全て塞翁が馬」。「こうしたら、良かったかも」ではなく「こうしたら、もっと悪かったかも」と考えることにします。消極的ポジティブシンキング?否、積極的ネガティブシンキング?いや…わけが分からなくなってしまいました。

とにもかくにも、このブログもまる4年続くことになりました。

拙文に目を通していただいている皆様、ありがとうございました。来年もがんばって続けますので、どうぞお付き合いください。


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退屈・別離・祈り


オディロン・ルドン《仏陀》

オディロン・ルドン《イエスの御心》
「フランス象徴主義の代表的画家」ルドン。ヨーロッパの画家で、仏陀もイエスも描いていること自体、変わった人です。
現実に「死」を前にすると、人は宗教的にならずにいられません。原始から、人は、自然発生的に亡くなった人を葬ることを行いました。死は宗教のルーツかもしれません。


あまりの衝撃に、言葉が思い浮かびません。

先週、20年来の友人が世を去りました。友人、といっても、年齢的には私より12〜3も年下。私は実は、心の中にしぶとい「長幼の序」と「傲慢」を飼っていて、自分より年下の人を心底尊敬することはめったにありません。(もちろん敬意を持つ人は無数にいますが、それでも自分より年下の人にはどこか上から目線を否定しきれない、という意味です。)その、数少ない年下でありながら尊敬する人物の一人が彼でした。

彼の何を尊敬したのか…その業務遂行能力、胆力、人間性…などに対してです。

彼と出会ったのは、大阪花博会場でした。まだ大学生だった彼は、私が携わっていたイベントのアルバイトのサポートスタッフとして私の目の前に現れました。

目立たず淡々と指示されたことをこなす中に、彼の並外れた業務遂行能力を感じた私は、花博が終わると他社のアルバイトだった彼を引き抜き、自分の事務所の専属アルバイトになってもらいました。

それから二十余年、お客様の社員となった彼のこれからのさらなる活躍を信じて疑うことはなかったのですが…

彼と最後に会って酒を酌み交わしてからもう2年近く経ってしまったのかも知れません。それまで一切仕事に対して決して後ろ向きな発言をしたことがない彼が、ストレートな言い方ではなかったものの、その言葉の中に現状を退屈と感じている気持ちがにじんでいるように私には感じられました。「海外へ行くか、何かこれまでと全く違うことをやってみようかと思う…」とつぶやくように話していました。もしかすると、なにげに十数年も年配の私に気の利いた助言を求めていたのかも知れません。彼はそういう人でした。しかし私は、このことすらも今となって思う事で、その時は何の考えもなく、そんなものか、と無反応に彼の話を聞いていました。

しかし、彼が「退屈」を仄めかせてから2年間、彼や私のようなビジネスをする人間にとって、時代は本当に退屈な方向へ流れている、と感じます。

私たちの仕事の価値は「最低限しなければならないこと」の価値ではなく、最低限のラインの上にどれだけ上積みできたか、が評価されないと存在価値を失う仕事です。機械部品に例えると、最低限寸法誤差0.5舒焚爾条件のものを、いかに0.05舒焚爾里發里砲垢襪に血道をあげ、0.5个茲0.050.05个茲0.005个里發里鬚弔る方が高く評価されないと成り立たない仕事なのです。誤差を0.5个茲蠑さくするのは勝手だがそれは過剰性能なのでそこに価値は認めない、と評価されたときに、私たちの仕事は目標を失って漂流します。

何事にも極めて合理的な考え方をし、真に価値ある方向を見失わないことが信条だった彼にとって、今の時代は退屈そのものだったのかも知れません。

彼の命を奪ったのは病ではなく、退屈だったとも言えます。世界が彼を捨てたのではなく、彼が世界を見切ったのです。

私はもう少し、より精度の高い部品でないと価値がない世界を捜して生きたいと思います。

いずれにしろ…

静かに、一人の若いビジネスの侍がこの世界から姿を消しました。

残る人間には、寂寥感あるのみです。



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家の噺

長期間更新を休止しておりましたが、復活させることにいたしました。今後ともよろしくお願いします。

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